vykrmwcscarym’s blog

イデオロギーシャトルラン

日本の教育は、「何もしなければ動物並の人間の社会教育には最善」なのか?

2014-07-29 09:38

https://ch.nicovideo.jp/tamusic/blomaga/ar550566

5分で書いてみる思考実験です

受験勉強。ほんと、自分にとって害悪だった・・・・。なぁ、、、
でも、主観と客観は違うし、世界的、歴史的にみた、自分が受けた教育って、どうなんだろう???

とふと思ったので、思いついた事を書き記してみる。





主観では、日本の量産系、例外を認めない、かなりお金と時間をかけて国民99%を9年間義務教育させる方針、 教科書を読んで、30~40人位を一クラスにした担任制、、、
。。。

ほんと、自分には合わないわ~~~

と。今自分がやっている「クリエイティブ」な事には何ひとつ意味をなさない事への無駄な学生時代の貴重な時間を悔やむ。

悔やむ、、、 が、、、

・・・・が、、、


主観ではなく、客観で、、、しかも、世界の教育と国家の民度や社会度、を観た場合、
やはり日本式は、最善なのではないのか、、と。。。

日本式の教育以上に、良い教育が半世紀、50年以上続き、そして教育を受けたものが社会を回していく形になって

既存の事をせず、新しい価値観を生み出す人を出す方向性に行くなら、いわゆるアメリカ式にすれば良い

特に、国家として「天才」の英才教育を認めるか、認めないか、の所。

飛び級を認めたり、学校教育をせずに専門教育をさせたり(オリンピック候補、等、国家の為になる人材)

という事を認める、例外を認めると。
極一部の天才は、非常に伸び伸びと出来る。。。。

・・・が、、、、

天才を国家が認めると、創ると、人間というのは他人との比較をしてしまう生き物なので
全体の総和としては、レベルが下がってしまう、と思われる。
よーするに、超天才を集団に入れる事で、集団、民衆で成り立つ国家全体の質が落ちてしまう事だ

特に、民主主義の国民投票等は、誰でも一票となっている

経済力(対価を得るものを生産創作したものが、同じ対価のものを消費する権利を得るシステム) には直接的には比例しない。



話を戻して。

自我が目覚める年齢に、レベルで別けた教育をする、という高校入試のタイミング。

様々な国が、様々な状況下、で様々な教育をしていくが、、、

結果として。
国の発展的にも、民度の高さ(特に、悪さをする人の数、大多数の庶民の価値観)は世界最高レベルの「最善」となっている、のか???

悪い所ばかり追求するのだが、結局人間なんて、ほかっておけばカオスな集団になるのはわかりきったこと。


・・・

だが、、、

一番最初に戻って、
個人の視点にたてば・・・。
学校教育ほど無駄な事は無かったにしろ、、、あの強制的な空間があったから、まぁそこまで破天荒な人間にはならず、ある程度まるまって、社会生活に適合可能な人格となった、のかもしれない。

私のような変態が、教育を受けない、若しくは自由奔放な教育を受けたとしたら、、、どこかの方向に突き抜けてしまう、ことだろう・・・

それが良い方向にも悪い方向にも。

あんな退屈な強制的経験があったから。一応忍耐力が付く、のか・・・
よく無駄な事に人生費やしたもんだ・・・勿体無い・・・

学校教育の有用性の上位に「必要性があろうがなかろうが、理由があろうがなかろうが、強制的に集団の一員として動け!」という教育を、どれだけ受けるか、という事。

自由な発言が許される、若しくは推奨される率により、教育の方向性は違ってくる
ディスカッション、討論を多くやるのか、先生の講義をずっと黙って聞いてノートにかいたりする、のか、、、
の時間割り振りの違い。

教育委員会が、歴史的な見地で「非常に大きな権力」を握ったからこそ、GHQが教育大改革をしたからこそ、、、
デメリットもあるにしろ。
かねがね良い結果になったのではないか・・・


クリエイティブじゃない人(労働集約産業、指示されマニュアル(教科書)に沿って課題を進めていくタイプの人生人口が8割なら、そこに標準を合わせた日本式が、
結局民度が人間社会にしては高くなり、安全となる(極一部のDQNの数、貧困の数だけで、安全度合いやモラルや民度は決まる)

・・・。


思いついた事を5分でつれづれ書いてみました^^